老人は過去に生きるしかない

幸せこそが仕事の目的

社会に出て1年が過ぎ、試用期間が終わって5日に1度の当直勤務に組み込まれることになった。
私の班の当直長は、総務係長の山瀬警部補。当時50歳過ぎていたと思う。

豪傑タイプの人で、署長であろうが、副署長であろうが、相手によって態度を変えるという人ではなく、自分が正しいと考えたことはズバッ!ズバッ!と言い切る人だった。

高卒ではあったが、刑法、刑事訴訟法、警察官職務執行法、すべて丸暗記しており、法令集など開かなくてもスラスラっと条文を答えられる優秀な人で、上層部に好かれはしなかったが、一目置かれている、、そんな雰囲気をもった人であった。

私は2年間、この山瀬警部補班の当直勤務員たちと寝起きして、いろいろなことを教えてもらった。

高卒で警察官を拝命して以来、猛烈に勉強し、必死に仕事に励んで、念願の刑事になった。昇任試験は、巡査部長試験一発、警部補試験一発で合格し、当時は、エリートコースで出世街道まっしぐら、県警幹部になるのは間違いなしと誰もが思っていたそうである。

それが警部補昇任後、昇任試験の受験を止めてしまった。やがて刑事の職からも外され、窓際である総務係長の職に甘んじてしまった。もう20年近くも警部補の階級を続けている、出世できる能力があるのに、出世を目指さない、そんな変わり者との陰口を叩かれていた。

ちょうど2年目に入ったある日、山瀬警部補と仮眠に入った。
それまで疑問に思っていたことを聞いてみた。
「署長になれる能力があるのに、なぜ試験を受けないのですか?」

俺は、海津(岐阜県南部)の水飲み百姓の次男坊だったから、子供のころから出世志向が強かった。しかし大学へ行ける金もなく、出世するには自衛隊か、警察官か、と考え警察官を選んだ。自分で言うのもなんだが、、頭は良かった。昇任試験も簡単に合格できた。そして警部補に昇任し、刑事としてもバリバリと仕事に励んだ。ここまでは子供のころからの夢、署長になって威張ることしか頭の中になかった。

がっ!

30過ぎたころに自分の生き方に疑問を持った。
「働く目的は、何なんだ」
「出世イコール幸せなのか?」

結婚して5年、子供はできなかった。刑事の仕事柄、仕事仕事で家に帰る日も少なく家庭(妻)のことなんか考えていなかった。そりゃあヤルことやってないんだから子供ができるはずがない。これで署長になって幸せなのか、、、そう思った。

そう思ったとき、「虚しい」という気持ちに襲われた。

それで出世を目指すのは止めた。仕事も家庭優先に切り替えた。当然、家庭を優先に考える者に刑事が務まるはずもない。それがいまの俺だ。このまま家庭優先で退職まで生きて行くということだ。

人間とは愚かな生き物だと思う。幸せになるために仕事をする、、、、これが仕事をする唯一無二の目的なのだ、、、が、、いつしか出世することが目的と化して、「幸せになるために仕事をする」という初期の目的を見失ってしまう

金を稼いで、家族との生活を優先する。これが幸せであり、このために仕事をする。これが人として生きるということ。

仕事をするとは金を稼ぐこと、、、と考えてみたまえ。

「出世する→収入が増える」ということになるから「金を稼ぐには出世する」ということになるが、それは思い込みであって、現実はそうはいかない。

たとえば警部補(係長)程度なら部外者との交際がないから、高級な背広や靴は要らないが、署長になれば、外部の社会的地位のある人間と交際しなければならなくなる。そうなれば当然、その身分相応の服装が必要になる。飲み代などの交際費も高級な店に出入りすることになるので、係長が部下を連れて居酒屋で飲むようなわけにはいかない。

つまり出世で収入は増えるが、出世することによって増えた収入以上の出費が出ていく。すなわち差し引きすれば出世すればするほど、家庭に残る金は減っていくということになる。「仕事をするとは金を稼ぐこと」と考えるなら、出世とは、仕事をするという目的とは外れたところにあるということになる。


  1. 2017/01/29(日) 11:50:15|
  2. 影響を与えた言葉
  3. | コメント:1

人と比べることに意味はない

社会に出て初めての給料が支給された。
給料袋を開いてみると、1万円札が1枚、千円札が7枚とあと小銭が入っていた。

研修の時に支給された給料が1万9千円余だった。それを期待していたので、現実の支給が少ないことに愕然とした。明細を見る。昼食弁当代1500円、親睦会500円が差し引かれていた。自分の食べた昼食代が引かれているのは当然なのだが、それでもショックだった。

その日の夜、アパートの家主が家賃の集金に来た。8000円なりである。
支給された給料17000円から8000円を支払うと残りが9000円。これで1ヶ月を食っていかなければならない。ただ、現実に自分が物を買い、自分が支払いをするという生活は未体験である。いくらで生活できるかなど、まだ分かってはいなかった。

「三十までに生活の基盤を固める」
これが社会人になっての私の目標であった。金を貯める、金さえ貯めれば自信をもって生きられる。当面の目標は「年収分を貯める」、私の頭にあったのは、ただこれだけであった。

研修のときの給料をまだ1万円残していた。これにプラスして毎月2000円は貯金すると決めた。
これで1ヶ月の生活費は7000円となる。

1ヶ月生活してみて厳しいことが分かった。
生活費がオーバーしそうになると、味噌だけがおかずと言う日が続いた。銭湯も1週間に1度と倹約した。春先は、長良川の堤防に出て、つくしを摘み、フキノトウを摘み、野生の菜の花を摘み、、、これをおかずとすることで生活費を浮かせた。また、イナゴやバッタを捕まえて佃煮として保存もした。

こういう生活を苦とは思わなかった。
小学生の頃の我が家は、こういう生活をしていた。私たち子どもは、山菜を採ったり、山芋を掘ったりと、遊びの中で家計を助けていた。働き始めても、、、、生活する、、、食っていくとは、こういうものだと思っていた。

そうして半年が過ぎ、ボーナスが支給された。
このころ同期生の一人から連絡が入った。「ボーナスが出たから一度会おう」という話だった。みんなまだ19歳と未成年だから場所はレストランを兼ねた喫茶店だった。

私はそんな場所に行ったことはない。気乗りはしなかったが、あまりにもしつこく誘うので仕方なく参加を決めた。集まったのは女子2人を含む8人。みんな岐阜市内の出身、いわゆる町の人間である。

結論を言えば、生まれて初めて屈辱感を味わった、、というしかない。

出されたのはサーロインステーキ。当然、フォークとナイフである。
田舎者の私には、使い方も分からない。仕方なく、みんなのするように真似をする。だが、フォークの背にご飯を載せるというのが上手にできない。みんなは慣れた手つきで、フォークの背にご飯を載せてパクパクと食べる。

そして話題と言えば、、、彼女はできたか、、とか、、どんな車を買う、、とか、、夏休みはどこへ旅行する、、、とか、、、ギリギリの生活で生きている私には考えたこともない遠い世界の話である。

誰かに馬鹿にされたわけでもない。非難を受けたわけでもない。
だが、私は地獄の底に叩き落されたくらい惨めな心境でアパートに帰りついた。

アパートの布団の中で、いろいろと考えた。
世の中は理不尽なものだ。
同じ給料をもらい、同じ仕事をしているのに、その生活は天と地ほどの違いがある。

こうしていろいろと考えている時に、祖父に言われた言葉を思い出した。
「ウジ虫に生まれ落ちたヤツは、きれいな蝶々になりたいと願っても、死ぬまでウジ虫」
「幸せになりたいなら、ウジ虫として精いっぱい生きることしかない」

いままでは漠然と、そんなものかと聞いていたが、きょうのことは、これですべて納得できると思ったのである。

同じ人間が、同じ試験を受けて、同じ仕事をし、同じ給料をもらっても、、、
町に生まれた人間は、家賃の8000円を自由に使える。さらに食費も必要ない。

山に育った私に自由に使える金などないが、町に育った彼らは19000円すべてが自由に使える金なのだ。

「人間は能力や努力で差が付くのではない、生まれたときに、すでに差は付いているのである」
「人それぞれに生まれ育ちに差がある以上、人と比べることに意味はない」


このときの屈辱感の中で、私の人生哲学は生まれたのである。


  1. 2017/01/26(木) 22:35:40|
  2. 影響を与えた言葉
  3. | コメント:2

堂々と自信をもって生きよ

昭和45年4月1日。
研修を終えて配属先である岐阜北警察署に着任した。

着任の挨拶に辞令書をもって署長室に向かう。総務の係長が「署長は不在だから庁舎内でも見学していてくれ」と言う。署長に会わなければ、どの部門で仕事をするのか分からない。仕方なく、2階、3階と見て回る。

老朽化した木造庁舎の床板がギシギシ軋む。ところどころに踏み抜いたような穴が開いていた。

3階に上ったところの廊下で、作業服を着た一人の老人が床板を張り替えていた。
近づいていくと、、、「気を付けて歩けよ、怪我をするぞ」と言う。つっ立ったまま作業を眺めていた。

すると、、、「ヒマなら手伝ってくれよ」、、と言う。
別にすることもなかったので、板を運んだり、押さえていたりと、老人の指示に従ってお手伝いをした。作業が終わると老人は「君のおかげで助かったよ、ありがとう」と言って、大工道具を片付けて1階の方へ降りて行った。

会議室に入り、窓から町を見下ろしてみた。
北側は鷺山本通りのバス路線である。その向こうは当時はまだ田園地帯で、美濃国の戦国大名である斎藤道三が、嫡男義龍との戦いで陣を敷いた鷺山城址が見通せた。道三の首を埋めたとされる道三塚は、すぐ目の前である。南側に回ると、そこには高いコンクリートの塀で囲まれた一角があった。拘置所と刑務所である。

しばらく時間をつぶして1階に降りていくと、総務係長が私を呼び止め、「署長が帰ったから挨拶をしてくれ」と言う。署長室の前に立つと緊張した。

気を引き締めて署長室のドアをノックする。

「どうぞ」と声がかかる。
ドアを開けると、、、、、、、、
あの作業をしていた老人が作業衣姿のまま応接セットに座って新聞を読んでいた。

私は、ただ、、、唖然として声も出なかった。

警察署長、ここのトップである。高校で言えば校長であろう。
もっと威厳があって、まだ高校生気分の私には、声をかけるのも恐れ多い存在だと考えていた。
それが、、、あの床板を修理していた、どこにでもいるような老人なのである。

私の脳裏にある署長のイメージと現実のギャップがなかなか埋まらない。

署長は顔を上げて私を見ると、、、
「ああ~、さっきは助かったよ」
「君が今度来てくれるのかね」
「じゃあ、これからもまた手伝いを頼むわ」

コーヒーを入れてもらい、しばらく世間話をした。渓流釣りが好きで、私の故郷へも泊りがけで釣りに入ったというようなことを言う。そういう話を聞くとますます親しみを感じてしまうのであった。

「儂ももう定年なんでね、なんの役にも立たん、せめて庁舎の補修ぐらいはと思ってね」
などと言う。このときの署長の年齢が54歳である。

この署長との付き合いは、わずか1年弱だったが、私の哲学となる教訓を教えてもらった。

まだ私は19歳だったが、高校3年生から吸い始めた煙草が止められなかった。警察署に居て煙草を吸うなどダメと言うのは分かりきっている。それでも吸いたい気持ちを我慢できずに、トイレの個室で隠れて煙草を吸った。

これが、、、運が良かったのか、悪かったのか、、、これは後からわかるのだが、、、隣の個室に署長が入っていたのである。

何日かが過ぎ、私はもう忘れていた。

ある日、また署長の補修作業をしている姿を見つけて手伝った。そのとき、「君は、隠れて煙草を吸ってるだろう」と言われた。ここはシラを切りとおすか、素直に認めるか、、、迷った。しばらく迷った挙句、、、すみません、、と謝った。

「儂は、煙草を吸ったとかどうとかということを問題にはしない」
「ただ、男としての生き方として君に言っておきたい」

「何事もやると決めたら堂々とやれ」
「こそこそと隠れてやるとか、そんな自信のない中途半端な生き方をするな」


煙草が吸いたかったら、みんなの前で堂々と吸えば良い。
誰かが何か言ったら「俺が吸いたいから吸った、何が悪い」と言ってやれば良い。
「未成年が・・・」などと講釈を言うヤツがいたら、「じゃあ逮捕して処分しろ」と言ってやれば良い。

これだけ堂々と開き直られて、処分できる人間などいないもんだ。

これは良い、悪いの問題ではない。
「男の生き方とは、こうあるべきだということ」
「君には、こういう生き方をしてもらいたい」


この署長は定年退職を1ヶ月後に控えた、2月の寒い日、単身赴任中の官舎で急逝してしまった。
人生で100回以上葬儀に参列してきたが、涙が流れたのは、後にも先にもこの署長の葬儀だけだった。


  1. 2017/01/24(火) 21:20:51|
  2. 影響を与えた言葉
  3. | コメント:0

目標「三十にして立つ」

「吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う」
(私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになった)
これは、孔子が晩年に振り返って言ったことばと言われる。

小学校4年生までの教師は、地元の坊さんただ一人で、国語と算盤しか教えられない人だった。
私の記憶では、孔子の論語や孫氏の兵法などしか記憶に残っていない。

特に「三十にして立つ、四十にして惑わず」は、自分の人生の中で強く意識していた記憶がある。
「人間、三十までには生活の基盤と生き抜くための信念を固める」
「生活の基盤と信念さえ固まれば、迷うことがなくなる、それが四十」
「人間は五十で天命を知る、それが人生の終わり」


**************************

研修も中盤の3月21日。
思いもかけぬ給料が支給された。教室でテストを返してもらうような感じで一人ずつ呼び出されて給料袋を手渡された。席に戻って給料袋の封を切ると、中には1万円札1枚、千円札8枚と小銭が入っていた。

私が初めて手にする現金であった。

初めての給料を手にして宿舎に戻る。だが、同宿している同僚たちは、現金を手にしたことで「祝杯を挙げる」ということで柳ヶ瀬(繁華街)に繰り出していった。私は、いつものように食堂で、、素うどん、、ではなく、この日は特別に奮発して天ぷらうどんにした。ただそれだけのことでリッチな気分になれた。

誰もいないだだっぴろい部屋の布団に寝転がって考えた。
「三十までに生活の基盤を固める」

まず俺がやるべきは、三十までの10年間で、生活の基盤を固めること。
生活の基盤を固めるとは、まずは金を貯めること。金が無ければ何も始まらない。俺の人生も始まらない。

これが当面の私の人生の課題と決めたのであった。

夜9時を過ぎてから、みんな酔っぱらって帰ってきた。
キャバレーの女の子のおっぱい触った、、とか、、町の女はあか抜けている、、とか、、みんなテンションは上がりっぱなしで、私など眼中にないといったムードである。だが、それをうらやましいとは思わなかったのは自分でも不思議であった。


そして研修も、あと1週間となったある日、配属先の伝達があった。
知事部局の本庁勤務、、、、、8人。
知事部局の出先機関、、、、20人。
教育委員会(学校関係)、、12人。
公安委員会(警察本部)、、10人。

ここで5人が退職届を出した。学校関係が2人、警察関係が3人。
すべて都市部出身の採用者である。

町の人間だから、みな県庁勤務を期待していたのであろう。

私には勤務先の希望はなかった。要するに、県庁勤務と警察勤務の何が違うのかが理解できていなかったし、そんな情報も全くなかった。社会へ出るとは、食っていくために金を稼ぐこと、、、だとしか考えていなかったのである。


そして研修終了の3月31日。
私は、岐阜北警察署勤務の辞令を受けた。

これを見てほっとした。
北警察署の場所だけは知っていたからであった。まだ中高生のころ何回か母に連れられて、北警察署前のバス停で降りた。近くに、母の姉が嫁いだ警察官舎があったのである。

山の中から出てきたばかりの田舎者の私にとっては、見知らぬところを探していくよりも、建物の形や場所を知っているだけで心強かったという安心感があったからだろう。


  1. 2017/01/22(日) 16:23:21|
  2. 影響を与えた言葉
  3. | コメント:1

気分はまだ子供

昭和45年3月1日、高校の卒業式。
式を終えると、さっそく下宿先に別れを告げて電車に乗り、岐阜へ向かった。
明日から公務員研修が始まるので、宿泊先の入寮手続きを取らなければならなかった。

入寮手続きを済ませると、その足で「徳山連絡所」へと向かう。

「徳山連絡所」とは、、、
まだ電話もなかった当時の徳山村に、町の情報は全く入ってこなかった。
子供を町に出す親にとって、家賃の相場がいくら、、とか、子供たちがどう暮らしているか、、とか、それは心配の種であり、知りたい情報でもあった。また、町に出た徳山村民同士が情報を交換し合える場所も求められていた。

こうしたことに必要性を感じた徳山村出身の女性が、自宅の1階を開放して、徳山村民のための交流の場を提供したのである。これが、いつしか徳山連絡所と呼ばれるようになっていった。

私の親も当然、ここに私の住むアパート探しをお願いしていたのである。
徳山連絡所に行ってみると、一人の女性と3人ぐらいの男たちが酒を飲みながら話していた。山はまだ雪が残ってる、、とか、今年は熊を3頭も仕留めたとか、、、話の内容から徳山の住人らしいことが分かる。

自分の名前を告げると、、、
「あ~あ、杉松さんとこの跡取りさんやね」と、女性が親しげに声をかけた。
杉松とは、私のひいおじいさんで、分家してできた我が家の初代である。徳山村では、初代の名前を家号として誰もが呼ぶのである。

「頼まれてたアパートは、ここから200mほど川の方へ歩いたとこにある睦荘」
「それから下宿先の布団などは、大工のみっちゃんがヒマを見つけて運んでくれるそうだから・・」
大工のみっちゃんが誰なのか、どんな人なのか知らないが、多分、徳山村出身の人なのだろう。

「それじゃあ3月31日に研修が終わるんで、31日の夕方また来ます」
と女性告げる。

酔っぱらった男たちが、、、
「おい、ぼうず、がんばれよ」と声をかける。
「山は厳しい自然が相手だが、町は人間と言う魔物が相手だ」
「自然は厳しい顔をして命を奪うが、人間はにこにこ笑いながら命を奪う」

「人間の笑顔に油断すると、尻の毛まで抜かれちまうからな、気ぃつけろよ」
男たちが大笑いする。

それを聞いていた家主の女性が、、
「ちょっといい加減にしなさいよ、これからの人を脅してどうするの」

それを聞きながら連絡所を出て、教えられたアパートを探して歩いてみた。
川の堤防に向かって200mほど歩くと天理教の寺院があった。この交差点を左に折れると2階建てのアパートがあった。アパートの家主も同じアパートの一室に住んでいた。挨拶だけ済ませた。

入口を入ったところに小さなキッチン、四畳半と六畳の二間。
これで家賃と共益費で8000円。
高卒の公務員の初任給が19000円の時代である。

こういう現実的な話に直面したこともないし、アパートなどと言うものを見たこともない。これが安いのか、高いのかという判断もできない。そうですかと聞くしかなかった。ただ、徳山連絡所での紹介だから、それが相場なんだろうと思った。

このときは、まだ給料をいくらもらえるのか、、とか、、その給料でこのアパートで生活できるのか、、という現実的な生活感はまったく頭の中になかったのだが、研修を終えた1ヶ月先、これが相当厳しい生活に直面することになろうとは夢にも思わなかった。

3月1日は、あわただしく過ぎて行った。
なんとか門限ぎりぎりに宿泊施設に滑り込むことができた。

一室に10人で生活することになる。大広間に10人が雑魚寝である。食事は外食であるが、みんなきょう高校を卒業したばかりの子供である。お金なんかほとんど持ってはいない。近くの食堂で素うどん一杯で腹を満たして宿舎に戻る。

戻ってもテレビがあるわけじゃあないし、みんな布団の上でごろ寝して時間が過ぎるのを待つだけだが、やがて退屈を持て余して、誰かがしゃべる、それの話し相手になる、、、まったく見知らぬ同士ではあったが、寝るまでの3時間ほどで、すっかり仲良くなってしまった。

これが現代であったなら、それぞれが携帯とにらめっこで一言もしゃべらずに一日が過ぎ、お互いの交流と言うことは無しで終わるのだろう、、、と思う。

翌日は、すっかり打ち解け、声を掛け合って一緒に宿舎を出、バスに乗って合同庁舎の研修所に向かった。宿舎は分散されていたようで、集まったのは総勢50人。これが同期生である。男子は、みな学生服、女子はセーラー服で、この雰囲気が社会人になったという意識にさせなかった。みんなまだ高校生活の延長のような感じだった。


  1. 2017/01/20(金) 21:21:32|
  2. 影響を与えた言葉
  3. | コメント:1

プロフィール

Author:chance2005
管理人::諏訪真吾


カテゴリ

私小説(戦い終えて日が暮れて) (51)
影響を与えた言葉 (5)
人生のエピソード (4)
ひとりごと (17)

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク