老人は過去に生きるしかない

目標「三十にして立つ」

「吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う」
(私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになった)
これは、孔子が晩年に振り返って言ったことばと言われる。

小学校4年生までの教師は、地元の坊さんただ一人で、国語と算盤しか教えられない人だった。
私の記憶では、孔子の論語や孫氏の兵法などしか記憶に残っていない。

特に「三十にして立つ、四十にして惑わず」は、自分の人生の中で強く意識していた記憶がある。
「人間、三十までには生活の基盤と生き抜くための信念を固める」
「生活の基盤と信念さえ固まれば、迷うことがなくなる、それが四十」
「人間は五十で天命を知る、それが人生の終わり」


**************************

研修も中盤の3月21日。
思いもかけぬ給料が支給された。教室でテストを返してもらうような感じで一人ずつ呼び出されて給料袋を手渡された。席に戻って給料袋の封を切ると、中には1万円札1枚、千円札8枚と小銭が入っていた。

私が初めて手にする現金であった。

初めての給料を手にして宿舎に戻る。だが、同宿している同僚たちは、現金を手にしたことで「祝杯を挙げる」ということで柳ヶ瀬(繁華街)に繰り出していった。私は、いつものように食堂で、、素うどん、、ではなく、この日は特別に奮発して天ぷらうどんにした。ただそれだけのことでリッチな気分になれた。

誰もいないだだっぴろい部屋の布団に寝転がって考えた。
「三十までに生活の基盤を固める」

まず俺がやるべきは、三十までの10年間で、生活の基盤を固めること。
生活の基盤を固めるとは、まずは金を貯めること。金が無ければ何も始まらない。俺の人生も始まらない。

これが当面の私の人生の課題と決めたのであった。

夜9時を過ぎてから、みんな酔っぱらって帰ってきた。
キャバレーの女の子のおっぱい触った、、とか、、町の女はあか抜けている、、とか、、みんなテンションは上がりっぱなしで、私など眼中にないといったムードである。だが、それをうらやましいとは思わなかったのは自分でも不思議であった。


そして研修も、あと1週間となったある日、配属先の伝達があった。
知事部局の本庁勤務、、、、、8人。
知事部局の出先機関、、、、20人。
教育委員会(学校関係)、、12人。
公安委員会(警察本部)、、10人。

ここで5人が退職届を出した。学校関係が2人、警察関係が3人。
すべて都市部出身の採用者である。

町の人間だから、みな県庁勤務を期待していたのであろう。

私には勤務先の希望はなかった。要するに、県庁勤務と警察勤務の何が違うのかが理解できていなかったし、そんな情報も全くなかった。社会へ出るとは、食っていくために金を稼ぐこと、、、だとしか考えていなかったのである。


そして研修終了の3月31日。
私は、岐阜北警察署勤務の辞令を受けた。

これを見てほっとした。
北警察署の場所だけは知っていたからであった。まだ中高生のころ何回か母に連れられて、北警察署前のバス停で降りた。近くに、母の姉が嫁いだ警察官舎があったのである。

山の中から出てきたばかりの田舎者の私にとっては、見知らぬところを探していくよりも、建物の形や場所を知っているだけで心強かったという安心感があったからだろう。


  1. 2017/01/22(日) 16:23:21|
  2. 影響を与えた言葉
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気分はまだ子供

昭和45年3月1日、高校の卒業式。
式を終えると、さっそく下宿先に別れを告げて電車に乗り、岐阜へ向かった。
明日から公務員研修が始まるので、宿泊先の入寮手続きを取らなければならなかった。

入寮手続きを済ませると、その足で「徳山連絡所」へと向かう。

「徳山連絡所」とは、、、
まだ電話もなかった当時の徳山村に、町の情報は全く入ってこなかった。
子供を町に出す親にとって、家賃の相場がいくら、、とか、子供たちがどう暮らしているか、、とか、それは心配の種であり、知りたい情報でもあった。また、町に出た徳山村民同士が情報を交換し合える場所も求められていた。

こうしたことに必要性を感じた徳山村出身の女性が、自宅の1階を開放して、徳山村民のための交流の場を提供したのである。これが、いつしか徳山連絡所と呼ばれるようになっていった。

私の親も当然、ここに私の住むアパート探しをお願いしていたのである。
徳山連絡所に行ってみると、一人の女性と3人ぐらいの男たちが酒を飲みながら話していた。山はまだ雪が残ってる、、とか、今年は熊を3頭も仕留めたとか、、、話の内容から徳山の住人らしいことが分かる。

自分の名前を告げると、、、
「あ~あ、杉松さんとこの跡取りさんやね」と、女性が親しげに声をかけた。
杉松とは、私のひいおじいさんで、分家してできた我が家の初代である。徳山村では、初代の名前を家号として誰もが呼ぶのである。

「頼まれてたアパートは、ここから200mほど川の方へ歩いたとこにある睦荘」
「それから下宿先の布団などは、大工のみっちゃんがヒマを見つけて運んでくれるそうだから・・」
大工のみっちゃんが誰なのか、どんな人なのか知らないが、多分、徳山村出身の人なのだろう。

「それじゃあ3月31日に研修が終わるんで、31日の夕方また来ます」
と女性告げる。

酔っぱらった男たちが、、、
「おい、ぼうず、がんばれよ」と声をかける。
「山は厳しい自然が相手だが、町は人間と言う魔物が相手だ」
「自然は厳しい顔をして命を奪うが、人間はにこにこ笑いながら命を奪う」

「人間の笑顔に油断すると、尻の毛まで抜かれちまうからな、気ぃつけろよ」
男たちが大笑いする。

それを聞いていた家主の女性が、、
「ちょっといい加減にしなさいよ、これからの人を脅してどうするの」

それを聞きながら連絡所を出て、教えられたアパートを探して歩いてみた。
川の堤防に向かって200mほど歩くと天理教の寺院があった。この交差点を左に折れると2階建てのアパートがあった。アパートの家主も同じアパートの一室に住んでいた。挨拶だけ済ませた。

入口を入ったところに小さなキッチン、四畳半と六畳の二間。
これで家賃と共益費で8000円。
高卒の公務員の初任給が19000円の時代である。

こういう現実的な話に直面したこともないし、アパートなどと言うものを見たこともない。これが安いのか、高いのかという判断もできない。そうですかと聞くしかなかった。ただ、徳山連絡所での紹介だから、それが相場なんだろうと思った。

このときは、まだ給料をいくらもらえるのか、、とか、、その給料でこのアパートで生活できるのか、、という現実的な生活感はまったく頭の中になかったのだが、研修を終えた1ヶ月先、これが相当厳しい生活に直面することになろうとは夢にも思わなかった。

3月1日は、あわただしく過ぎて行った。
なんとか門限ぎりぎりに宿泊施設に滑り込むことができた。

一室に10人で生活することになる。大広間に10人が雑魚寝である。食事は外食であるが、みんなきょう高校を卒業したばかりの子供である。お金なんかほとんど持ってはいない。近くの食堂で素うどん一杯で腹を満たして宿舎に戻る。

戻ってもテレビがあるわけじゃあないし、みんな布団の上でごろ寝して時間が過ぎるのを待つだけだが、やがて退屈を持て余して、誰かがしゃべる、それの話し相手になる、、、まったく見知らぬ同士ではあったが、寝るまでの3時間ほどで、すっかり仲良くなってしまった。

これが現代であったなら、それぞれが携帯とにらめっこで一言もしゃべらずに一日が過ぎ、お互いの交流と言うことは無しで終わるのだろう、、、と思う。

翌日は、すっかり打ち解け、声を掛け合って一緒に宿舎を出、バスに乗って合同庁舎の研修所に向かった。宿舎は分散されていたようで、集まったのは総勢50人。これが同期生である。男子は、みな学生服、女子はセーラー服で、この雰囲気が社会人になったという意識にさせなかった。みんなまだ高校生活の延長のような感じだった。


  1. 2017/01/20(金) 21:21:32|
  2. 影響を与えた言葉
  3. | コメント:1

何もしない人生

私と同じように早期退職した人たちが、、、口をそろえたように、、第二の人生は決まったか、、と聞く。
その意味するところは「再就職」ということを指しているらしい。

これが私にはまったく理解できない。
なぜそんなに働きたいのか?
働らかなければいけないのなら、、、なぜ早期退職したのか?

他人の考えることは、さっぱりわからんのである。

第一の人生は、生きるため、欲のために働くこと。
第二の人生は、死ぬことへ向けての心の準備をし、楽しむこと。

祖父もそういう生き方をした。
私もその祖父の考え方や生き方の信奉者だから、当然そういう考えをする。

毎日、ウッドデッキの長椅子に寝転がって日向ぼっこをする。
時間も関係ないし、曜日も関係ない。
腹が減ったら何かを食べて、暗くなったら家の中に入る。

理想としてきた生き方である。

春は畑をつついて野菜を作る。
球根を植えてユリを咲かせる。

子供を散歩させて歩くママさんが何人か通る。
愛想よく声をかけてくれるママさんには、野菜を取って持たせる。
花が欲しいという子供にはユリの花束を作って持たせる。

穏やかな一日が流れていく。

欲もない、虚しさもない、妄想もない、、、
ただ時間の流れに乗って漂っているだけの人生。
俺は一生をかけて、この理想の生活を手に入れたのだと満足していた。

ちょうど53歳。

みんなが口をそろえて言う
「まだ若いのに・・・」
「せっかくの公務員を辞めるなんてもったいない」
「これから何をするの?」

私が就職した時、定年は55歳であった。
上司たちはみんな53~55歳で退職していった。
誰も「若いとか、早すぎる」などとは言わなかった。

それからわずか30数年しか経っていない。
人間の細胞が、、、わずか30数年で活性化し、長生きできるようになるものか?
最近でも60歳代は老人ではない、まだ若いというようなニュースが流されていたが、結局は、政府の洗脳によって、そう思い込まされるということだと私は思う。

平均寿命が伸びた、、、これも政府の洗脳。
わずか30年や50年のスパンで人類(動物)が、そんなに劇的に進化していくものか?
するわけがない。

若年者が減少して、高齢者が増加していく。
当然の平均年齢は上がっていく。
これを平均寿命が伸びたという言い方をする。

そして、、、それを何も考えてはいない馬鹿な人間たちが、平均寿命が伸びていると勘違いする。
これからは100歳、200歳まで生きられるようになる。60歳、70歳はまだまだ若い。

笑える話である。

笑える話はもう一つある。
テレビなどの健康番組で「お医者さんに相談しよう」というフレーズが良く流される。

お医者さんに相談したら健康で長生きできるのか?
という話である。

健康診断を受けて、健康相談して、薬を飲んでいれば長生きできるのか?
これが正しい話であるならば、、、

老人ホームや介護施設の入所者の大半は、医者と看護婦ばかりになっているはず。
こんなものは医者と言う商売の宣伝文句だと思うのは、、、私だけか・・・(笑)


こんなことを考えながら日向ぼっこをしていると、あっという間に日が落ちてしまう。
仕事を辞めてから、、ますます時間が流れるのが早くなった気がする。

  1. 2017/01/17(火) 15:33:32|
  2. 私小説(戦い終えて日が暮れて)
  3. | コメント:1

戦い済んで

平成15年4月1日。52歳と11ヶ月22日である。
ついに退職承認の辞令を受け取った。

この辞令交付式で、思いもよらないことが起こった。警察功績賞が授与されたのである。
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そんなこと思いもしなかったし、、、
名前を呼ばれても、他人事だと。。。しばらくは反応できなかった。

こんな勲章、誰でもがもらえる物ではない。誰か有力な人が推薦してくれなければもらえるわけがない。ましてや早期退職者の私にである。それでも誰かが私を推薦して申請してくれたことは事実である。

表彰とか勲章とか、、、いままでそういう類の物に何の価値観も感じなかった私だったが、、、これは誰かが私を認めてくれていたという証拠としてうれしかった。

式典が終わって帰ろうとしていたとき、式典のひな壇に座っていた、あの三橋参事官(従姉の旦那)が近づいてきて一言。
「俺に頭を下げれば、定年まで勤められたのに・・・」
こいつは根っからのクソだと思った。

同期生たちや可児署の捜査本部にいた刑事たち、その他何組かから送別会の申し出があった。すべてお断りした。人間関係なんて、、、すべては虚無である。酒を飲むこと自体が虚無の世界である。そういう定型的な行事をすること自体を虚しいと感じる心境に陥っていたのである。

可児署の捜査本部で一緒だった大川刑事課長が、「俺の送別会も受けないんかい」「そりゃあ仁義に外れるだろ」と怒って電話してきた。

「これからは無職の人間だから、、、『酒と女を絶つ』と決めた、、だから了解してほしい」

「そうかぁ~、『酒と女を絶つ』かぁ~、できるんかい」
「女と酒があるから人間生きていられるんとちゃうんかい」

「そりゃあ、あんたは女にモテるから、そう言えるんだろうが・・・」
「俺は、女で良い思いをしたことがないから、、、そういう考えはないね(笑)」

「まぁ~考えは人それぞれだからしゃあ~ないけど、寂しくなったら電話くれよ」

大川刑事課長と電話していて、、、
「あいつみたいに人生思い通りに動いていく人間には虚無と言う感覚はないんだろうな」
心の底からそんなことを思った。

しかしひとつだけ送別会に参加した。
あの給与厚生課で部下だった正司係長の申し出だけは受けてしまったのである。

あの孤立無援の給与厚生課で唯一心の支えとなってくれた女性であり、かつ、参加者は、いままでの私の部下だった女子職員だけに声をかけた、という話だった。

正司係長には恩を感じていたし、参加者は女性ばかりというのが断れなかったということになる。
こういう場面(中途退職)で、親しくしていた男と酒を飲めば、必ず愚痴をこぼし、泣き言を言い、後悔し、誰かの悪口を言う、、ということになる。相手は慰める気持ちで言ってくれるのは分かるが、、、それは結果的に自分を惨めにさせるだけということになる。

だから、、、男を相手の送別会はすべて断ったのであった。

会場は、グランベール岐山の宴会場(大広間)であった。ここは教職員共済組合が運営する施設である。

警察共済の宿泊施設の廃止問題の時、当時、老朽化で建て替えが検討されていた、この施設との共同出資による建て替えも検討されていたのだが、教職員組合(労働組合)対警察共済組合(警察庁)という組織トップの折り合いがつかず、教職員共済組合の方がさっさと新装オープンさせてしまったという因縁の施設である。

集まったのは、女ばかり38人。
うち4人は高卒の新規採用として指導した職員もおり、またすでに退職して専業主婦となってる女性も5人参加していた。思い出深い顔ぶれである。

送別会というより女子会である。
子供がどうしたとか、、誰々が結婚したとか、、
主賓の私より、女同士のグループで盛り上がっている。

そんな賑わしい女たちを眺めていて、、、
「これでこういう場面を眺めるのは最後になるのだ」、そう思った。

この人たちとも明日からは、まったく無縁の人となってしまう。
まさに虚無の世界である。

何かをするから虚しい。
何もしなければ虚しさに襲われることはない。

これを悟りと言うのか?


  1. 2017/01/16(月) 22:47:04|
  2. 私小説(戦い終えて日が暮れて)
  3. | コメント:3

決断

休暇を終えて職場に戻ってみたものの、、、やる気が起こらない。

決められたことを、ただ淡々とこなす。決められた時間になれば帰宅する。何も考えないし、何の感動もない。事務職とは本来そういうものだが、いままでの5年間が刺激的すぎた。あの刺激が強すぎて、この変化のない時間を過ごすことを苦痛に感じていた。

こうして時間を過ごせば40万円程度のお金が手に入る。
それがどうしたという思いがある。そんな40万のお金が必要なのか?まったく必要ない。

そんな必要のないお金を稼ぐために、なぜ拘束されなければいけないのか?
毎日毎日そんなことを考えていた。

そのころ岐阜県は、県職員の高齢化対策、いわゆる団塊世代を整理して、新規採用を増やすという組織の新陳代謝を促すという施策を推進していた。当然、警察本部の警察官や職員も対象になる。その早期勧奨退職(人員整理)の適用が50歳以上であった。

現在52歳。条件は満たしていた。早期退職に応じれば、定年までの残年数に応じて最高5割増しの退職金がもらえるという仕組みである。ひと口で言えば、高齢職員のリストラである。

この勧奨退職者の募集は、辞める理由になる。
だが、迷っていた。

なぜ迷う??
と問いかけてみる。

迷う理由など何もない。
あるとすれば、、、単なるいままで続けてきた職への未練。ただそれだけ。

就職したばかりの頃、仕事が嫌で嫌で仕方がなかった。
祖父に、、、「なぜ働かなければいけないのか」と聞いたことがある。

答えは明快だった。
「そんなもの死ぬか、生きるか、というだけのこと」
「死ぬを選べば、すべてが一瞬で解決する」

「生きるを選ぶなら食わなければいけない」
「食うためには働かなければ食えない」

「ただそれだけのこと、考えることも迷うことも何もない」
「仕事を辞めるかどうかを考えるのは、食うだけの金を稼いだとき」
「まだ金も貯めないヤツに、辞めるか辞めないかと考える資格などない」

これが私の出発点であった。
出世とか、評価とか、そんなことは全く無関心に生きてきた。
すべて金である。
食ってくだけの金があれば仕事などしなくて良い。

ただそれだけが目標で生きてきた。

これを思い出した時、迷いは吹っ切れた。

働く理由もないのに、こうしてダラダラと職に居座り続けるのは虚しいだけのこと。
机の引き出しから、この書類を取り出し、申し込みのサインをして提出した。

「君はまだ早過ぎないか?」
「年金が出るまでの10年、短いようで長いぞ、大丈夫か?」
受け取った人事の担当者が、心配してくれたようだ。

無収入となっても10年は家族を食わせていける金は貯めていた。
そしてそれが今までの私の力の源泉でもあった。

「クビになるのが怖い」
私は、そういう人間を心から軽蔑してきた人間でもある。
金があったからこそ、クビなど恐れもしなかった。

あとは整理退職の枠に入れるかどうかだけであるが、それは私が考えることじゃあない。
運命で定められていることである。

この年は退職枠からはみ出した。

そして翌年、また早期退職の申し込みを出した。
交通規制課に着任して、早くも3年目を迎えていた。

「こんなくそ面白くもない組織だが、俺にはまだローンが残っている」
「金のことを考えてこなかったツケが回ったんだが、迷いもせずに辞められる君がうらやましいよ」

早期退職の枠に入ったことを伝えた課長が私に言った言葉である。


  1. 2017/01/15(日) 15:53:39|
  2. 私小説(戦い終えて日が暮れて)
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